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「博多豚骨ラーメンなんでんかんでん」(2012年7月4日発売)レポート3

Mr.なんでんかんでんを知ろう!!

なんでんかんでん社長、歌手兼タレントとしてMr.なんでんかんでんこと川原浩史さんとして様々な面をお持ちですが、今日は川原浩史さんという人物についていろいろお聞きしたいと思います。

Q 川原浩史さんの人生をずばり振り返っていかがですか?

歌を歌って食べていきたい!!20歳を目前に上京!!

まさか・・・ラーメン屋になるとは思ってもいませんでしたよ。そもそもは、歌手を目指して上京したんです。歌手は歌手でもオペラ歌手。
なぜオペラかって?
母親は大変な芸術家系に育ったせいか、私は幼少の頃からクラシック音楽のコンサート、美術の展示会と連れて行かれました。幼稚園からは、福岡の音楽の名門、福岡音楽院に入園。ピアノ、バイオリン、声楽と学びました。小学校が終わっても、ピアノや声楽のレッスンの毎日、それだけじゃないんです。それ以外に、ボーイスカウト,英語学校、お習字に家庭教師・・・徹底した教育ママに、正直うんざりしてましたよ。
小学校も高学年になると中学校受験ということで、ほとんどの習い事もやめることとなり、ほっと一安心。 なかでもクラシック音楽は大嫌いで、一番にやめたんです。
ところが不思議なものです。
高三の頃です。ディープパープル大好きで、この世代にありがちのロック少年を突っ走っていた私でしたが、夢の中にベートーベンが出てきて、「本物の最高の音楽を学びなさい!!」って……お告げではないですが…
目が覚めて、ホコリかぶったベートーベンの三大ピアノソナタ(熱情、月光.、悲愴)のレコードを引っ張り出してきたんです。中でも、「月光」という曲は最高で、涙がこぼれてきたんです。
幼少期から、強制的に習わされて、聞かされて大嫌いだったクラシック音楽に涙して聴いている自分に感動して、すぐに譜面を出してきて、ピアノの前に立ったんです。幼少時代、簡単な曲を何時間かけて練習して弾けなかったのに、月光のような曲が数日の練習で弾けたのには、ビックリしましたね。人間、ヤル気がないものを何度頑張ってもダメなんですね。良く分かりましたよ。
それ以来、あらゆる大作曲家のレコードを聴きまくりましたね。大学は、一般の大学を受験する予定でしたが、急きょ音大受験も考えるようになりました。オペラ歌手になれるだけの喉は十分に持っていましたし、そこそこピアノも弾けましたので・・・ とはいえ、高三も半ばになっての思いつき、ほとんどの人が長年真剣に取り組んできた難関。思いつきで合格するはずがありません。結局は断念することとなってしまいました。
とはいえ、歌を唄って食べていきたいという思いは強かったので、20歳を目前に上京しました。

大御所漫才師の弟子に!!

21歳の時でした。 ある雑誌で、演歌の作曲家募集というページがあり、応募したところ作詞者から気に入られ、いきなり作曲家という立場で東芝レコードからデビューすることになったんです。打碁一代という、囲碁をテーマにした曲でしたよ。
その後も何曲か曲を提供したりしましたが、自分は歌が唄いたいということを言っていたら、音楽プロデューサーから、シャンソン、タンゴを唄ってみないかと言われたんです。その時は、大喜びしましたね。
というのも、シャンソンはもともと大好きで、以前シャンソンを唄った際に、プロのシャンソン歌手から、「あなたの声はシャンソンに向いている」と大変お褒めの声を頂いたことがありました。タンゴは、あまり知りませんでしたが、それをきっかけに大好きになりました。自慢ではありませんが、三輪明宏さんや金子ゆかりさんで有名なシャンソンの殿堂、銀パリのステージに立ったこともありました。
ある日のことでした。
漫才界の大御所、“Wけんじ”が前座歌手を探しているとのこと……ある漫談家の紹介をいただき早速面接に行ったんです。雑談のような面接でしたが、私が車を運転出来るというだけで、一発で決まったんです。
その時言われたのが、「ぼうや(芸能界では弟子や見習いをこう呼ぶ)歌手志望かもしれんが、一緒に行動する以上、Wけんじの弟子ということになるからね…」と」言われたんです。エッ!!と思いましたが、それはそれで楽しいかな〜ということで、何故か大御所漫才師の弟子になったんです。
喋りが上手かったせいか、その後、歌以外に司会やお笑いの仕事も引き受けるようになり、気が付いたらピン芸人のようになっていて、あらゆる舞台に立つ機会をいただきました。半年ほどですが、昭和の大スター春日八郎の司会を務めたこともありました。
これまで、300回以上の講演会をやりましたが、「ラーメン屋の社長にしては、喋りが達者ですね!!」と言われますが、すべてはこの頃に鍛えられたものなんです。

当時東京には、豚骨ラーメンの影も形もありませんでした!!

上京した当時から、残念なことが二つありました。
まず一つは、東京のうどんが真っ黒で醤油くさいこと、関西から西の方も同様かもしれませんが、東京のうどんだけは、未だに食べれません。
もう一つが、ラーメンだったんです。
今の若い人は信じられないかもしれませんが、当時、東京のラーメンというと、醤油か味噌しかなく、豚骨ラーメンに関しては、影も形もありませんでしたし、今流行りの魚介系のラーメンもありませんでした。ただつけ麺だけは、当時「つけ麺大王」という店がいたるとこにありましたね。
もちろん豚骨ラーメンを食べたことがある人は、ほとんどいませんでした。僕は博多に生まれ育ったんですが、福岡には豚骨ラーメンしかないんですよ。だから、僕にとってラーメンといえば豚骨ラーメンのことでした。
今でもそうですが、博多で豚骨ラーメン以外のラーメンを探すことは大変なことなんです。ラーメンに関しては、かなり保守的な県かも知れませんね。そんなこんなで、上京してからは豚骨ラーメンが食べたくて、食べたくて…
たまに本場博多ラーメンなんて、看板を見つけては入ってみるんですが、どの店もインチキ豚骨ラーメン。麺は縮れているし、スープはインスタント。おまけにナルトなんか入ってるし……こんなふざけた博多ラーメンが本場の味なんて看板を掲げているんです。知らない人に、これが本物の博多のラーメンなんて思われたら博多の恥だと思ったんです。
この頃ですかね……漠然ではありますが、自分で店を持とうかな〜?って思うようになったのは……でも、僕にとってラーメン屋はカッコ悪い職業の一つだったんですよね。
というのも、僕が子供の頃のラーメン屋というと、ラーメン屋のオッチャンといった感じで、いつも汚いカッコウして自転車に乗って出前をしているイメージだったんです。
まだ若い自分にとって、ラーメン屋は恥ずかしい職業だったんです。それにどうしても、本来の夢である歌手を諦めきれないのでした。

俺が本物の豚骨ラーメンを東京で出す!!

ある日のこと、シャンソンのショーを終えた時でした。初老の女性がやってきて、
「あなたの歌は本当に素晴らしい。でも、シャンソンを唄うには人生経験が少な過ぎる。」
「シャンソンは人生を歌い上げるものです。」
「シャンソンをやっていくなら、もっと人生経験を積んで挑戦した方が良いかもしれませんね。」
なるほど、たしかにシャンソンの歌詞は大人の世界だ。俺は苦労も悲しみを経験したことないからな〜。シャンソンはもっと歳を重ねてからでもいいかもしれんな。それまで、一日も早くデビューしないとという思いでいっぱいでした。そんな焦りが、ゆとりに変わってきたんです。
基本、僕は根っからの芸人なんです。芸能人を目指す人は、誰もが目立ちたがりだと思うんです。僕も子供の頃から、目立ちたがりなんです。 シャンソンは、もっと歳を重ねてからでも挑戦出来るとして、さて、これからどうしよう?と考えたんです。

そんな時、ラーメンが頭に浮かんできたんです。
東京に豚骨ラーメンがない、俺が本物の豚骨ラーメンを出したら、東京のラーメン界にとって、かなり衝撃的な出来事になるはず。「今やらんと、他の人に先を越されるかもしれん。もしかしたら、有名になれるチャンスかもしれん」そう考えたんです。それからというもの、毎晩のように自分の店に行列している夢を見るんです。
師匠のWけんじにも相談したところ、応援してくれるとのことでした。
ラーメンの作り方は、なんとなくは分かっていましたが、最終的には知人の紹介のラーメン店で一日で教えてもらいました。後は、自宅で研究を重ねてオープンにこぎつけました。